大それたタイトルである。
中身は大したことないので,あしからず。
ふと自分の英語力と,
自分が教師になったときに教えるであろう
生徒の最終的な英語力を思い浮かべた。
帰国子女など例外を除けば,
生徒が最終的に教師の英語力を超えることはないだろう,と思ったのだ。
今,頭の中に思い浮かべているのは,高校の教育現場である。
自分の知っている,あるいはできること以上のことを
教室に持ち込むことは通常考えにくい。
では,そのことについて,英語教師は何ができるだろうか。
2つあると思う(今のとこ)。
1つ目は,自明だが,教師が自分の英語力を上げることである。
語学勉強には限りがない。
それは,たとえると,
大海の水をバケツですくうような作業だが,
大海ではなく,手元に残るバケツですくった水を想えば,
少しずつだが,進歩はみえる。
教える以上は,自分が学ぶことを止めてはいけない。
これは「義務」に近いものである。
生徒に努力しろと言いつつ,自分があぐらをかいていては話にならない。
と未来の自分に言い聞かせよう。
そして,2つ目だが,これが案外,無視されているように思う。
それは,生徒に教室外で学ばせる機会を与えることである。
つまり,「生徒が教師の英語力を超えることはない」というのは,
そもそも,生徒が教室内でしか勉強しなかったら,という仮定に
基づいている,ように思う。
ならば,教師は積極的に,教室外での学びを仕掛けてもよいのではなかろうか。
大きなことをする必要はない。
今や,英語の勉強なんて,どこでもできると教えてやればよい。
英語の学習本なんて,本屋に行けば至るところに見られるし,
インターネットを使えば,タダで英語を学ぶことができる時代なのだ。
そういったことをちょいと話せばよい。
なにより教室での学びには限界があるし,
自分のクラスの生徒が,自分の授業に満足していない可能性だって十分にある。
問題は,情報がありふれているということである。
だから,教師が必要なのであり,適切な情報を示すことが求められる。
どの学習本を勧めるか,どのHPが有益か。
自分が感動した本・曲・ドラマは何か。
マニアックな文法書の小話もいいかもしれない。
そういった情報を,もっと「積極的に」生徒に提供してもよいのでは,と思うのだ。
学ぶ場所は教室だけではない。
そう思うのだ。
中身は大したことないので,あしからず。
ふと自分の英語力と,
自分が教師になったときに教えるであろう
生徒の最終的な英語力を思い浮かべた。
帰国子女など例外を除けば,
生徒が最終的に教師の英語力を超えることはないだろう,と思ったのだ。
今,頭の中に思い浮かべているのは,高校の教育現場である。
自分の知っている,あるいはできること以上のことを
教室に持ち込むことは通常考えにくい。
では,そのことについて,英語教師は何ができるだろうか。
2つあると思う(今のとこ)。
1つ目は,自明だが,教師が自分の英語力を上げることである。
語学勉強には限りがない。
それは,たとえると,
大海の水をバケツですくうような作業だが,
大海ではなく,手元に残るバケツですくった水を想えば,
少しずつだが,進歩はみえる。
教える以上は,自分が学ぶことを止めてはいけない。
これは「義務」に近いものである。
生徒に努力しろと言いつつ,自分があぐらをかいていては話にならない。
と未来の自分に言い聞かせよう。
そして,2つ目だが,これが案外,無視されているように思う。
それは,生徒に教室外で学ばせる機会を与えることである。
つまり,「生徒が教師の英語力を超えることはない」というのは,
そもそも,生徒が教室内でしか勉強しなかったら,という仮定に
基づいている,ように思う。
ならば,教師は積極的に,教室外での学びを仕掛けてもよいのではなかろうか。
大きなことをする必要はない。
今や,英語の勉強なんて,どこでもできると教えてやればよい。
英語の学習本なんて,本屋に行けば至るところに見られるし,
インターネットを使えば,タダで英語を学ぶことができる時代なのだ。
そういったことをちょいと話せばよい。
なにより教室での学びには限界があるし,
自分のクラスの生徒が,自分の授業に満足していない可能性だって十分にある。
問題は,情報がありふれているということである。
だから,教師が必要なのであり,適切な情報を示すことが求められる。
どの学習本を勧めるか,どのHPが有益か。
自分が感動した本・曲・ドラマは何か。
マニアックな文法書の小話もいいかもしれない。
そういった情報を,もっと「積極的に」生徒に提供してもよいのでは,と思うのだ。
学ぶ場所は教室だけではない。
そう思うのだ。
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