あるHPで,「教師の人格とコミュニケーション」についての文章を読む。
なんか,考えることがあったので,書き留めておきたい。
その内容は,非常に妥当なもので,真っ向から反対するものではない。
ただ,私にはしっくりこなかった。
例えば,
授業のうまさというのは,人の人格の上に成り立つ
というような内容が書かれていた。
その通りだと思う。
人として素晴らしい教師というのは,確かに授業も成功しやすそうだ。
教師と生徒とのコミュニケーションも上手くいくだろう。
私がこれまで会ってきた「達人」教師は,確かに人としても素晴らしかったように思う。
ただ,上の考察は,なんかしっくりこないのだ。
人として素晴らしくない教師は,素晴らしい授業は出来ないのだろうか。
そもそも,「人として素晴らしい」という表現に引っかかる。
いや,意味したいことは,なんとなく分かるのだが,
素直に受け止めたくないのである。
私自身,自分のことを「人として素晴らしい」とか「人格者」だとか
思っていないので,上のような考えは,受け入れたくないのである。
それでも,英語の教師になりたいと思っているし,
なるだけ良い授業を目指したい,と考えている。
けれど,コミュニケーション能力があるとは思っていない。
電話なんか,苦手でしょうがない。
そんな私は,英語教師になってはいけないのだろうか。
「人格(者)」という表現が嫌いだと思った。
何をもって,「人格者」だと言うのだろう?
世の中,いろんな人が居て成り立っていると思うし,
いわゆる「変人」教師がいても良いのではと思う。
言い過ぎをあえて承知で書くが,
「人格者」という発想は,教師が他とは異なり,特に別な職業だという印象を受けた。
エリート主義的な発想だと思った。
「教師は聖職者である」と同じ発想だと思った。
私見だが,そんなことは決してないと思うのだ。
教師といっても,やっぱり1人の人間だし,
「人格者」という窮屈な型に当てはめて欲しくないのだ。
違いを認めるべきはずの教師が,人格者という言葉を使って欲しくない,と思うのだ。
愚痴っぽくなってしまったが,
なんとなく気持ちが高ぶってしまったので。
なんか,考えることがあったので,書き留めておきたい。
その内容は,非常に妥当なもので,真っ向から反対するものではない。
ただ,私にはしっくりこなかった。
例えば,
授業のうまさというのは,人の人格の上に成り立つ
というような内容が書かれていた。
その通りだと思う。
人として素晴らしい教師というのは,確かに授業も成功しやすそうだ。
教師と生徒とのコミュニケーションも上手くいくだろう。
私がこれまで会ってきた「達人」教師は,確かに人としても素晴らしかったように思う。
ただ,上の考察は,なんかしっくりこないのだ。
人として素晴らしくない教師は,素晴らしい授業は出来ないのだろうか。
そもそも,「人として素晴らしい」という表現に引っかかる。
いや,意味したいことは,なんとなく分かるのだが,
素直に受け止めたくないのである。
私自身,自分のことを「人として素晴らしい」とか「人格者」だとか
思っていないので,上のような考えは,受け入れたくないのである。
それでも,英語の教師になりたいと思っているし,
なるだけ良い授業を目指したい,と考えている。
けれど,コミュニケーション能力があるとは思っていない。
電話なんか,苦手でしょうがない。
そんな私は,英語教師になってはいけないのだろうか。
「人格(者)」という表現が嫌いだと思った。
何をもって,「人格者」だと言うのだろう?
世の中,いろんな人が居て成り立っていると思うし,
いわゆる「変人」教師がいても良いのではと思う。
言い過ぎをあえて承知で書くが,
「人格者」という発想は,教師が他とは異なり,特に別な職業だという印象を受けた。
エリート主義的な発想だと思った。
「教師は聖職者である」と同じ発想だと思った。
私見だが,そんなことは決してないと思うのだ。
教師といっても,やっぱり1人の人間だし,
「人格者」という窮屈な型に当てはめて欲しくないのだ。
違いを認めるべきはずの教師が,人格者という言葉を使って欲しくない,と思うのだ。
愚痴っぽくなってしまったが,
なんとなく気持ちが高ぶってしまったので。
大それたタイトルである。
中身は大したことないので,あしからず。
ふと自分の英語力と,
自分が教師になったときに教えるであろう
生徒の最終的な英語力を思い浮かべた。
帰国子女など例外を除けば,
生徒が最終的に教師の英語力を超えることはないだろう,と思ったのだ。
今,頭の中に思い浮かべているのは,高校の教育現場である。
自分の知っている,あるいはできること以上のことを
教室に持ち込むことは通常考えにくい。
では,そのことについて,英語教師は何ができるだろうか。
2つあると思う(今のとこ)。
1つ目は,自明だが,教師が自分の英語力を上げることである。
語学勉強には限りがない。
それは,たとえると,
大海の水をバケツですくうような作業だが,
大海ではなく,手元に残るバケツですくった水を想えば,
少しずつだが,進歩はみえる。
教える以上は,自分が学ぶことを止めてはいけない。
これは「義務」に近いものである。
生徒に努力しろと言いつつ,自分があぐらをかいていては話にならない。
と未来の自分に言い聞かせよう。
そして,2つ目だが,これが案外,無視されているように思う。
それは,生徒に教室外で学ばせる機会を与えることである。
つまり,「生徒が教師の英語力を超えることはない」というのは,
そもそも,生徒が教室内でしか勉強しなかったら,という仮定に
基づいている,ように思う。
ならば,教師は積極的に,教室外での学びを仕掛けてもよいのではなかろうか。
大きなことをする必要はない。
今や,英語の勉強なんて,どこでもできると教えてやればよい。
英語の学習本なんて,本屋に行けば至るところに見られるし,
インターネットを使えば,タダで英語を学ぶことができる時代なのだ。
そういったことをちょいと話せばよい。
なにより教室での学びには限界があるし,
自分のクラスの生徒が,自分の授業に満足していない可能性だって十分にある。
問題は,情報がありふれているということである。
だから,教師が必要なのであり,適切な情報を示すことが求められる。
どの学習本を勧めるか,どのHPが有益か。
自分が感動した本・曲・ドラマは何か。
マニアックな文法書の小話もいいかもしれない。
そういった情報を,もっと「積極的に」生徒に提供してもよいのでは,と思うのだ。
学ぶ場所は教室だけではない。
そう思うのだ。
中身は大したことないので,あしからず。
ふと自分の英語力と,
自分が教師になったときに教えるであろう
生徒の最終的な英語力を思い浮かべた。
帰国子女など例外を除けば,
生徒が最終的に教師の英語力を超えることはないだろう,と思ったのだ。
今,頭の中に思い浮かべているのは,高校の教育現場である。
自分の知っている,あるいはできること以上のことを
教室に持ち込むことは通常考えにくい。
では,そのことについて,英語教師は何ができるだろうか。
2つあると思う(今のとこ)。
1つ目は,自明だが,教師が自分の英語力を上げることである。
語学勉強には限りがない。
それは,たとえると,
大海の水をバケツですくうような作業だが,
大海ではなく,手元に残るバケツですくった水を想えば,
少しずつだが,進歩はみえる。
教える以上は,自分が学ぶことを止めてはいけない。
これは「義務」に近いものである。
生徒に努力しろと言いつつ,自分があぐらをかいていては話にならない。
と未来の自分に言い聞かせよう。
そして,2つ目だが,これが案外,無視されているように思う。
それは,生徒に教室外で学ばせる機会を与えることである。
つまり,「生徒が教師の英語力を超えることはない」というのは,
そもそも,生徒が教室内でしか勉強しなかったら,という仮定に
基づいている,ように思う。
ならば,教師は積極的に,教室外での学びを仕掛けてもよいのではなかろうか。
大きなことをする必要はない。
今や,英語の勉強なんて,どこでもできると教えてやればよい。
英語の学習本なんて,本屋に行けば至るところに見られるし,
インターネットを使えば,タダで英語を学ぶことができる時代なのだ。
そういったことをちょいと話せばよい。
なにより教室での学びには限界があるし,
自分のクラスの生徒が,自分の授業に満足していない可能性だって十分にある。
問題は,情報がありふれているということである。
だから,教師が必要なのであり,適切な情報を示すことが求められる。
どの学習本を勧めるか,どのHPが有益か。
自分が感動した本・曲・ドラマは何か。
マニアックな文法書の小話もいいかもしれない。
そういった情報を,もっと「積極的に」生徒に提供してもよいのでは,と思うのだ。
学ぶ場所は教室だけではない。
そう思うのだ。
前セメ,テスティングの授業を取り,
文法のテストを作成する機会があったのだが,
そのときに考えた雑念を書き留めておきたい。
まず文法とは何だろうか?
思いつくのは,チョムスキーの生成文法で・・・
というのはウソで,まあ,学校で勉強した「5文型」ですか。
いわゆる,単語をどのようにつなげたら文が成り立つかという規則。
それから,時制・受け身・to不定詞・完了形・仮定法などといったタイプの,
お決まりの形をとる表現。
この「規則」や「お決まりの形」といった表現に見られるように,
とどのつまり,文法とはルール,である。
むむっ。
しかし,「ルールは破られるためにあるのだ」
と誰かの歌詞にあったようなことを言ってみたい。
そう。
実際に,ルールは破られている。
例えば,時制の一致なんか,必ずしも守られていない。
→“I thought we're going to see a movie.”
それから,付加疑問。
→“It's fine weather, is it?”
ハワイでは,そのルールはさらに緩く,
→ “I go to the beach yesterday.”
とローカルの人たちは平気で言うみたいだし。
ここまで来ると,
さすがに文法って何だろうって再考せずにはいられなくなる。
少し考えてみたい。
文法の種類には,二通りある。
1つは,「規範文法」であり,「このように用いねばならない」というもの。
もう1つは,「記述文法」であり,「実際はこのように使われている」というもの。
今は,実践的コミュニケーションを謳っている時代なので,
文法のターゲットも「記述文法」となっているはず。
なのだが,実際はどうだろうか?
んー。
よく分からないが,
少なくても「文法vsコミュニケーション」という図式は,
少しおかしいのでは,と思うのだ。
「文法は,コミュニケーションの中で,初めて意味を持つものであり,その逆でない」と。
このように仮定すると,
実際に彼らがどのように言葉を用いるかを知らなければ,
満足に教えることも出来やしないではないか,という気がしてくる。
もちろん,記述文法というと,幅が広くなり,
何でもありな感じになってしまいかねない気もする。
だから,やっぱ「ルールは大事だ」と振り出しに戻るのだ,きっと。
じゃあ,今までの話は一体何だったんだということになる。
それでは何だか申し訳ないので,もう一歩踏み込んで,
「ルールは大事だとする一方で,
ルールを破ることを恐れる必要もないのでは」と言ってみたい。
つまり,教える際には誰彼でも分かる共通の基盤が必要であり,
そのためのルールを教室で学ぶのだが,
例えば,その基準から少しはずれた(しかし,コミュニケーションは成り立つ)表現を,
生徒が使ったとしても咎めないでおこう,ということである。
“He say he like play football.”
でもよかろうもん。
しかし(ここに来てしかし!),それでもいいと教えたとして,
テストはどうするのか,という問題がおこる。
“He says that he likes playing football.”
と書けなければ×なのか。
どういった文脈でのテストをつくるか,によるのかもしれない。
単なる機械的な書き換え問題とかであったら,×になるかもしれないし,
自分の友だちの紹介をする,という文脈で行ったテストならば,○でもいいかもしれない。
そもそも(文脈なしの)文法をテストすることそのものが間違っている,
と主張する人もいらっしゃるかもしれない。
いやいや,生徒がどこでつまづいているかを見るためには,
そういったテストも必要なんだ,とおっしゃる人もいるかもしれない。
俺の頭の中は,もう不確定要素でいっぱいである。
ただ,そんな中でも,1つ確信をもって言えるのは,
「その文法のテストで何を見たいのか?」
ということを教師は常に問わなければならないということだろう。
生徒のどんな力を見たくて,テストするのか?
生徒にどんな力をつけたくて,教えるのか?
何にしても,簡単ではない。
また,上で抜けていた文法の議論として,
「話し言葉における文法」と「書き言葉における文法」
の区別が必要(かもしれない),ということがある。
話し言葉では,伝わる限り,文法は気にされないのが通常と思われる。
しかし,書き言葉では,そうもいかない。
書き言葉の頂上のAcademic Writingなんて,文法に全くもって厳しい。
たとえAcademic Writingでなくても,日本語の文章であったとしても,
他人は他人の文法に厳しい気がするのだが,どうだろうか。
文法の知識を最大限に使用することが求められるのは,
おそらくライティングにおいてであろう。
だとすれば,ライティングの範囲(授業科目)だけで,
文法を教え,テストしてはどうだろうか,と提案してみる。
微妙だろうか?
まぁ,思いつきなので勘弁。
論があちこち飛んでしまった。
申し訳ない。
文法のテストを作成する機会があったのだが,
そのときに考えた雑念を書き留めておきたい。
まず文法とは何だろうか?
思いつくのは,チョムスキーの生成文法で・・・
というのはウソで,まあ,学校で勉強した「5文型」ですか。
いわゆる,単語をどのようにつなげたら文が成り立つかという規則。
それから,時制・受け身・to不定詞・完了形・仮定法などといったタイプの,
お決まりの形をとる表現。
この「規則」や「お決まりの形」といった表現に見られるように,
とどのつまり,文法とはルール,である。
むむっ。
しかし,「ルールは破られるためにあるのだ」
と誰かの歌詞にあったようなことを言ってみたい。
そう。
実際に,ルールは破られている。
例えば,時制の一致なんか,必ずしも守られていない。
→“I thought we're going to see a movie.”
それから,付加疑問。
→“It's fine weather, is it?”
ハワイでは,そのルールはさらに緩く,
→ “I go to the beach yesterday.”
とローカルの人たちは平気で言うみたいだし。
ここまで来ると,
さすがに文法って何だろうって再考せずにはいられなくなる。
少し考えてみたい。
文法の種類には,二通りある。
1つは,「規範文法」であり,「このように用いねばならない」というもの。
もう1つは,「記述文法」であり,「実際はこのように使われている」というもの。
今は,実践的コミュニケーションを謳っている時代なので,
文法のターゲットも「記述文法」となっているはず。
なのだが,実際はどうだろうか?
んー。
よく分からないが,
少なくても「文法vsコミュニケーション」という図式は,
少しおかしいのでは,と思うのだ。
「文法は,コミュニケーションの中で,初めて意味を持つものであり,その逆でない」と。
このように仮定すると,
実際に彼らがどのように言葉を用いるかを知らなければ,
満足に教えることも出来やしないではないか,という気がしてくる。
もちろん,記述文法というと,幅が広くなり,
何でもありな感じになってしまいかねない気もする。
だから,やっぱ「ルールは大事だ」と振り出しに戻るのだ,きっと。
じゃあ,今までの話は一体何だったんだということになる。
それでは何だか申し訳ないので,もう一歩踏み込んで,
「ルールは大事だとする一方で,
ルールを破ることを恐れる必要もないのでは」と言ってみたい。
つまり,教える際には誰彼でも分かる共通の基盤が必要であり,
そのためのルールを教室で学ぶのだが,
例えば,その基準から少しはずれた(しかし,コミュニケーションは成り立つ)表現を,
生徒が使ったとしても咎めないでおこう,ということである。
“He say he like play football.”
でもよかろうもん。
しかし(ここに来てしかし!),それでもいいと教えたとして,
テストはどうするのか,という問題がおこる。
“He says that he likes playing football.”
と書けなければ×なのか。
どういった文脈でのテストをつくるか,によるのかもしれない。
単なる機械的な書き換え問題とかであったら,×になるかもしれないし,
自分の友だちの紹介をする,という文脈で行ったテストならば,○でもいいかもしれない。
そもそも(文脈なしの)文法をテストすることそのものが間違っている,
と主張する人もいらっしゃるかもしれない。
いやいや,生徒がどこでつまづいているかを見るためには,
そういったテストも必要なんだ,とおっしゃる人もいるかもしれない。
俺の頭の中は,もう不確定要素でいっぱいである。
ただ,そんな中でも,1つ確信をもって言えるのは,
「その文法のテストで何を見たいのか?」
ということを教師は常に問わなければならないということだろう。
生徒のどんな力を見たくて,テストするのか?
生徒にどんな力をつけたくて,教えるのか?
何にしても,簡単ではない。
また,上で抜けていた文法の議論として,
「話し言葉における文法」と「書き言葉における文法」
の区別が必要(かもしれない),ということがある。
話し言葉では,伝わる限り,文法は気にされないのが通常と思われる。
しかし,書き言葉では,そうもいかない。
書き言葉の頂上のAcademic Writingなんて,文法に全くもって厳しい。
たとえAcademic Writingでなくても,日本語の文章であったとしても,
他人は他人の文法に厳しい気がするのだが,どうだろうか。
文法の知識を最大限に使用することが求められるのは,
おそらくライティングにおいてであろう。
だとすれば,ライティングの範囲(授業科目)だけで,
文法を教え,テストしてはどうだろうか,と提案してみる。
微妙だろうか?
まぁ,思いつきなので勘弁。
論があちこち飛んでしまった。
申し訳ない。
文科省が,体罰の解釈について,初の見解を示したというニュースを読む。
学校教育法が禁じている体罰の解釈は変えない。ただし、
(1)生徒を放課後居残りさせたり、授業中に起立させたりするなどの行為は
「肉体的苦痛が伴わない限り、体罰でない」
(2)授業を妨害した生徒の携帯電話を預かることは許される、・・・
などといった具体例が挙げられた。
2点目は,少し滑稽だなと思う。
体罰とどのように関係するのだろうか。
しばしば,体罰は許されるのか,といった議論がされるが,
正直,私はよく分からない。
これまで幸い(?),体罰を身をもって経験することがなかったため,
この問題が今ひとつ,実感としてわかないのである。
果たして,どうなのだろうか?
「身をもって」経験することこそなかったが,
クラスメートがぶたれるのは目にしている。
小学校6年生のときだ。
生徒を教室の後ろに立たせ,「歯を食いしばれ」と先生が怒鳴り,
5,6人は居ただろう,クラスメートの頬を次々とぶっていった。
自分のことではないのに,何故か記憶は鮮明である。
先生は真剣だったし,
ぶたれたクラスメートは皆,目を真っ赤にして泣いていた。
自分たちがしでかしたことを真剣に反省していたと思う。
ただそれでも,
クラスは皆,その先生のことが好きだったと思う。
体罰を行ったにしろ,行わなかったにしろ,
先生が真剣に自分たちと向き合ってくれていたのが分かっていたから。
私が将来教師になったとき,体罰を行うことはないと思う。
ただ,他の教員が体罰を行うことについては,何も言えない気がする。
生徒をぶつというのは,相当の覚悟が要ることだと思うから。
上では,回想のところより,
「体罰」=「ぶつ」と定義を限定して用いていることに注意されたい。
学校教育法が禁じている体罰の解釈は変えない。ただし、
(1)生徒を放課後居残りさせたり、授業中に起立させたりするなどの行為は
「肉体的苦痛が伴わない限り、体罰でない」
(2)授業を妨害した生徒の携帯電話を預かることは許される、・・・
などといった具体例が挙げられた。
2点目は,少し滑稽だなと思う。
体罰とどのように関係するのだろうか。
しばしば,体罰は許されるのか,といった議論がされるが,
正直,私はよく分からない。
これまで幸い(?),体罰を身をもって経験することがなかったため,
この問題が今ひとつ,実感としてわかないのである。
果たして,どうなのだろうか?
「身をもって」経験することこそなかったが,
クラスメートがぶたれるのは目にしている。
小学校6年生のときだ。
生徒を教室の後ろに立たせ,「歯を食いしばれ」と先生が怒鳴り,
5,6人は居ただろう,クラスメートの頬を次々とぶっていった。
自分のことではないのに,何故か記憶は鮮明である。
先生は真剣だったし,
ぶたれたクラスメートは皆,目を真っ赤にして泣いていた。
自分たちがしでかしたことを真剣に反省していたと思う。
ただそれでも,
クラスは皆,その先生のことが好きだったと思う。
体罰を行ったにしろ,行わなかったにしろ,
先生が真剣に自分たちと向き合ってくれていたのが分かっていたから。
私が将来教師になったとき,体罰を行うことはないと思う。
ただ,他の教員が体罰を行うことについては,何も言えない気がする。
生徒をぶつというのは,相当の覚悟が要ることだと思うから。
上では,回想のところより,
「体罰」=「ぶつ」と定義を限定して用いていることに注意されたい。
噂の教育再生会議で,紅白の“裸ダンス問題”が議論されたという。
他に議論すべきことがあるだろうに。
そもそも,教育再生会議なんて名前がふざけている。
現場で日々奮闘している教師に対して,失礼ではないか。
メンバーを確認してみると,
まぁ,様々なジャンルの人が集まっているんですね。
驚きました。
「21世紀はふざけてはいけませんよ〜」の
Mattunが入っていなかったので,一安心。
聞けば,教育現場の経験者はたった2人,
教育問題を専門に研究している学者に至っては1人もいない,
というではないか。
どうやって議論を進めているのだろう?
畑違いの人々が集まり,
それでも同じ土俵で議論を深めることは可能なのだろうか?
確かに,異なる視点からの意見というのは大切だろう。
しかし,教育の政策を決めようという会議において,
教育を専門に考えている人がいない,というのは
ハワイぼけしている俺でも,どうかと思うのだ。
それはさておき。
1次報告がまとまり,7つの提言・4つの緊急課題が打ち出された,
というニュースを読む。
1 「ゆとり教育」を見直し、授業時間数を増加
2. いじめる子どもには「出席停止」措置。体罰に関する基準の見直し。
3. 高校で奉仕活動を必修化。
4. 教員免許制度の厳密な運用で、不適格教員を排除。社会人教員を大量採用。
5. 教育委員会、学校を外部評価。
6. 家族や古里の価値を考える機運を効用。
などが論点。
教員に対する研修制度は,
今後厳しくなっていくみたいですね。
まぁ,やるのは結構なんですけど,問題は中身が伴うか,ということ。
国の考えることはいつも,
解決しようとしているのか,問題を増やそうとしているのか,
どっちなんだろう,と思ってしまう。
まっ,しばらくは情勢を窺いましょう。
というわけで,
本業になるはず(?)の教育も少しずつ考えていきませう,
他に議論すべきことがあるだろうに。
そもそも,教育再生会議なんて名前がふざけている。
現場で日々奮闘している教師に対して,失礼ではないか。
メンバーを確認してみると,
まぁ,様々なジャンルの人が集まっているんですね。
驚きました。
「21世紀はふざけてはいけませんよ〜」の
Mattunが入っていなかったので,一安心。
聞けば,教育現場の経験者はたった2人,
教育問題を専門に研究している学者に至っては1人もいない,
というではないか。
どうやって議論を進めているのだろう?
畑違いの人々が集まり,
それでも同じ土俵で議論を深めることは可能なのだろうか?
確かに,異なる視点からの意見というのは大切だろう。
しかし,教育の政策を決めようという会議において,
教育を専門に考えている人がいない,というのは
ハワイぼけしている俺でも,どうかと思うのだ。
それはさておき。
1次報告がまとまり,7つの提言・4つの緊急課題が打ち出された,
というニュースを読む。
1 「ゆとり教育」を見直し、授業時間数を増加
2. いじめる子どもには「出席停止」措置。体罰に関する基準の見直し。
3. 高校で奉仕活動を必修化。
4. 教員免許制度の厳密な運用で、不適格教員を排除。社会人教員を大量採用。
5. 教育委員会、学校を外部評価。
6. 家族や古里の価値を考える機運を効用。
などが論点。
教員に対する研修制度は,
今後厳しくなっていくみたいですね。
まぁ,やるのは結構なんですけど,問題は中身が伴うか,ということ。
国の考えることはいつも,
解決しようとしているのか,問題を増やそうとしているのか,
どっちなんだろう,と思ってしまう。
まっ,しばらくは情勢を窺いましょう。
というわけで,
本業になるはず(?)の教育も少しずつ考えていきませう,
